【人物と歴史】九龍城砦に住んでいた人はどんな人々だったのか
九龍城砦に住んでいた人々は、犯罪者や裏社会の関係者だけではありません。実際には、低所得層の労働者、商店主、職人、工場経営者、子育て世帯、高齢者など、さまざまな背景を持つ人々が暮らしていました。
九龍城砦が住宅地になった歴史

九龍城砦の起源は、清朝が沿岸防衛のために建設した軍事拠点です。
- 1847年: 清朝政府が軍事要塞として九龍城砦を建設。
- 1898年: イギリスが新界を99年間租借。九龍城砦は租借対象から外れ、主権・管轄をめぐる問題が残る。
- 1899年: イギリス軍が九龍城砦に進駐し、清朝の役人や兵士を排除。
- 1941〜45年: 日本占領期に城壁が取り壊され、啓徳空港の拡張用資材として利用される。
- 第二次世界大戦後: 中国大陸からの移住者などが流入し、住宅や商店が増加。
- 1970年代: 鉄筋コンクリート造の高層住宅が増え、現在知られる独特の景観が形成される。
特に重要なのは、1898年以降の複雑な管轄問題です。中国側とイギリス側の双方が関係する地域でありながら、行政サービスや法規制が十分に行き届かない状態が長く続きました。
その結果、通常の都市計画とは異なる形で住宅や商業施設が発展していきます。
香港政府の歴史資料や研究論文によると、戦後の九龍城砦は単なる不法占拠地から、住宅、工場、商店が集積する独特の市街地へ変化しました。
住民の多くは生活のために九龍城砦を選んだ

九龍城砦に人が集まった背景には、香港の住宅事情と経済格差がありました。
住宅費を抑えたい人、仕事場の近くに住みたい人、一般の住宅市場では住まいを確保しにくい人にとって、九龍城砦は現実的な選択肢でした。
また、戦後の中国大陸からの移住者にとっても、新しい生活を始める場所の一つでした。
つまり、九龍城砦は特殊な犯罪者だけが集まる場所ではなく、経済的な事情を抱えた一般市民にとっての生活拠点でもあったのです。
【生活実態】九龍城砦に住んでいた人はどのような環境で暮らしていた?

九龍城砦の生活を理解するうえで重要なのは、外から見た建物の異様さと、内部で営まれていた日常生活を分けて考えることです。
外観はまるで一つの巨大な建築物のようでしたが、その内部には個別の住宅、店舗、工場、診療所が存在していました。
住宅の広さと建物の構造
九龍城砦には、無計画に増築された建物が複雑につながっていました。
日本都市計画学会の1993年の研究では、九龍城砦の特徴として、次のような構造が報告されています。
- 高さは最大14階程度。
- エレベーターのない建物が存在。
- 建物同士が通路や階段で複雑につながっていた。
- 内部には自然光がほとんど届かない場所もあった。
- 狭い通路や配管が建物の内外に入り組んでいた。
特に特徴的なのは、建物同士が物理的につながっていたことです。
隣の建物に移動する際、いったん地上に降りずに、階段や通路を通って別の建物へ進める場所もありました。
これは通常の住宅街とは大きく異なる構造です。
水道・電気・衛生環境はどうなっていた?
生活インフラには大きな問題がありました。
特に水道は、すべての住宅に安定した給水設備が整っていたわけではありません。
香港大学などの研究者による2018年の論文では、元住民への聞き取りを通して、次のような生活実態が紹介されています。
- 私設の井戸水を利用する住宅があった。
- 水を供給する業者に料金を支払う仕組みが存在した。
- 飲料水は城砦の外にある消防用給水栓から運ぶ場合もあった。
- 電力については香港の電力会社から購入していた住民もいた。
- 建物には違法な電気配線や水道管も入り組んでいた。
つまり、九龍城砦の住民全員が電気や水を無償で盗んでいたという説明は正確ではありません。
一方、排水設備や衛生管理は不十分で、地上の路地には開放排水溝や下水、廃棄物の問題がありました。建物の内部と地上の環境には大きな差があったのです。
子どもたちの遊び場は屋上だった
九龍城砦で暮らした子どもたちにとって、屋上は重要な生活空間でした。
狭い路地では自由に遊べる場所が限られていましたが、屋上には比較的開放的な空間がありました。
そこから見えるのは、近隣の建物だけではありません。
近くに啓徳空港があったため、屋上から飛行機の離着陸を眺めることができました。
この飛行機の姿は、元住民の子ども時代を象徴する記憶としても紹介されています。
香港のM+が所蔵する建築研究者・何巽(Suenn Ho)の1988〜92年の調査映像にも、屋上、狭い路地、住民の会話、商店や食品製造の様子が記録されています。
この映像資料は、単なる建築写真では分からない住民の生活を伝える貴重な記録です。
【仕事と家賃】九龍城砦の住民は何をして生活していた?
九龍城砦には住宅だけでなく、多種多様な仕事場がありました。
そのため、住民のなかには、家からほとんど出ることなく仕事を続けられる人もいました。
食品工場や小規模事業が集まっていた
代表的な仕事には、次のようなものがありました。
| 仕事・施設 | 主な内容 | 地域との関係 |
|---|---|---|
| 食品工場 | 魚団子、麺類、食品加工 | 香港の食文化を支えた |
| 繊維関連工場 | 縫製、布製品の製造 | 小規模な雇用を生み出した |
| 金属加工業 | 金属製品や部品の加工 | 職人や労働者が働いた |
| 商店・飲食店 | 食料品販売、食堂など | 住民の日常生活を支えた |
| 歯科診療所 | 歯科治療 | 城砦の外からも患者が訪れた |
| 医療関連施設 | 医師などによる診療 | 公的医療とは異なる需要に対応した |
特に知られているのが食品製造業です。
魚団子や麺類など、香港の食生活に欠かせない食品が作られていました。
また、九龍城砦には無認可の歯科診療所が多数存在しました。中国大陸で医療教育を受けたものの、香港の資格制度を満たせず、通常の医療機関では働けない人々が診療を行っていたという背景もあります。
低価格で治療を受けられることから、城砦の外から患者が訪れるケースもありました。
香港の地域文化資料「Kowloon Citywalk」では、かつて150を超える歯科診療所が存在したと紹介されています。
家賃は安かった?生活費はどれくらい?
九龍城砦が住宅地として選ばれた理由の一つが、周辺地域と比べた住居費の安さでした。
ただし、住宅の所有形態、賃貸契約、建物の状態、立地によって条件が違うため、全住民に共通する家賃相場を一つの数字で示すことはできません。
参考になるのが、1991年1月6日付のロサンゼルス・タイムズによる現地報道です。
同紙は、九龍城砦にあった造花工場の従業員の証言として、次の賃料を紹介しました。
1991年・造花工場の賃料事例
月額賃料
対象面積
約1,000平方フィート
城砦外の比較
約2倍以上の賃料
この証言から分かるのは、九龍城砦の低い賃料が事業者にとって大きな経済的メリットになっていたことです。
一方、住民の生活費については、住宅費だけで判断できません。水の購入、電気代、食費、仕事へのアクセスなど、それぞれの家庭によって事情が異なりました。
香港大学などの研究者による元住民への聞き取りでも、九龍城砦の住宅価格は周辺の都市部より手頃だったとされています。
つまり、九龍城砦は住環境の悪さを抱えながらも、経済的に余裕のない人々に住まいや仕事の機会を提供する場所でもあったのです。
【治安の真相】九龍城砦は本当に犯罪者だらけだったのか?
九龍城砦を語るとき、必ず取り上げられるのが治安問題です。
実際に、九龍城砦では賭博、麻薬取引、売春、違法営業などが存在し、三合会などの犯罪組織も影響力を持っていました。
しかし、犯罪が存在したことと、すべての住民が犯罪に関与していたことは別の問題です。
犯罪組織と一般住民は同じではない
九龍城砦では、行政による管理が弱かったことから、違法な経済活動が発展しました。
特に1950〜70年代には、犯罪組織の影響が強く、麻薬や賭博などが地域の評判を悪化させました。
ただし、同じ場所で普通の家庭生活も営まれていました。
2017年に発表された研究「The second life of Kowloon Walled City: Crime, media and cultural memory」は、1960〜70年代に九龍城砦で暮らした人や働いた人など、22人へのオーラルヒストリー調査を基礎資料の一つとしています。
この研究が示すのは、九龍城砦には犯罪と地域社会の秩序が同時に存在していたということです。
犯罪組織の存在を否定することはできませんが、そこに暮らす人々の日常まで犯罪一色だったと考えるのも適切ではありません。
元住民の証言に見る意外な日常
2018年3月、サウスチャイナ・モーニング・ポストは、取り壊しから25年を迎えた九龍城砦の元住民を取材しました。
そのなかで紹介されたのが、元玩具工場労働者のLau Chun-fat氏です。
同氏は、かつての生活を振り返り、九龍城砦にいた頃のほうが安全だと感じていたという趣旨の証言をしています。
また、幼少期から10年以上を九龍城砦で過ごした、アメリカ在住の医師Vivian Chan氏の経験も紹介されました。
この2人の記憶は、九龍城砦を一面的に語れないことを示しています。
もちろん、個人の証言だけで地域全体の治安を判断することはできません。しかし、当時の報道が強調した犯罪のイメージだけでは、実際の住民生活を十分に説明できないのです。
【誤解と事実】九龍城砦のイメージを検証
| よくあるイメージ | 実際の状況 |
|---|---|
| 全住民が犯罪者だった | 一般家庭、労働者、商店主なども多数暮らしていた |
| 警察が一切入れなかった | 管轄問題はあったが、行政や警察による対応が完全に存在しなかったわけではない |
| すべての建物が無秩序だった | 個々の建物は小規模な建設業者によって建てられ、一定の構造や設計が存在した |
| 住民同士の交流はなかった | 食事の助け合いや近隣関係などが元住民の証言に残っている |
| 住民全員が取り壊しを歓迎した | 移転を望む人もいれば、住み慣れた地域を離れたくない人もいた |
特に注目したいのは、住民同士の関係です。
2018年の学術研究では、元住民の聞き取りから、近所の食料品店が子どもたちに食事を分け与えたり、隣人同士が料理や世話を通して助け合ったりしていたことが紹介されています。
一方で、こうした共同体の温かさがあったからといって、衛生問題や犯罪、危険な建築環境が解消されていたわけではありません。
九龍城砦は、良い面と悪い面が極端に同居した地域だったのです。
【取り壊しの経緯】住民はなぜ移転し、九龍城砦は消えたのか?
九龍城砦の取り壊しは、一日で決まったものではありません。
背景には、長年の管轄問題、建築・衛生上の問題、香港の将来をめぐる中国とイギリスの政治的な交渉がありました。
1987年に香港政府が取り壊しを正式発表
1984年12月19日、中国とイギリスは香港問題に関する共同声明に署名しました。
1997年7月1日に香港の主権を中国へ移すことが決まり、九龍城砦の扱いについても両政府の間で調整が進みます。
そして1987年1月14日、香港政府は九龍城砦の取り壊しと公園整備の方針を発表しました。
1987年版の香港政府年報によれば、政府は事前調査を実施し、住民約3万2,000人と商業施設約1,050事業所を確認しています。
取り壊しが決まった主な背景は以下のとおりです。
1. 住民が密集する劣悪な居住環境の改善。
2. 衛生・排水・防災上の問題への対応。
3. 違法建築や無認可営業などの管理上の問題。
4. 中国とイギリスの間で長年続いた管轄問題の解決。
5. 香港返還を見据えた地域の再整備。
単に犯罪が多かったからという理由だけではありません。都市行政と国際政治の両面から、九龍城砦の存在を整理する必要があったのです。
取り壊しと住民移転の重要年表
| 年月 | 関係者・出来事 | 住民への影響 |
|---|---|---|
| 1984年12月 | 中国・イギリスが共同声明に署名 | 香港返還に向けた政治的調整が進む |
| 1987年1月 | 香港政府が取り壊しを発表 | 住民調査と補償・移転の準備が始まる |
| 1987年以降 | 香港政府の特別部門が移転を実施 | 公営住宅への移転や金銭補償が進む |
| 1992年7月 | 住民の退去が完了 | 約2万8,000人と約900事業所が移転 |
| 1992年11月 | 解体工事の契約を締結 | 建物の本格的な撤去準備 |
| 1993年3月23日 | 取り壊し作業が始まる | 住民の生活空間が解体される |
| 1994年4月 | 解体工事が完了 | 九龍城砦の建物群が姿を消す |
| 1995年 | 九龍寨城公園が開園 | 歴史的遺構を残す公園へ転換 |
| 1996年 | 衙門と南門の遺構が記念物に指定 | 歴史的価値の保存が進む |
香港政府の1992年版年報では、同年7月までに約2万8,000人の住民と約900の商業事業所が退去し、約30億香港ドルの現金補償が支払われたと記録されています。
また、解体工事の契約額は約4,200万香港ドルでした。
住民全員が移転に納得していたわけではない
移転は政府の補償によって進められましたが、すべての住民がすぐに受け入れたわけではありません。
九龍城砦で何十年も生活してきた人々にとって、引っ越しは単なる住所変更ではありませんでした。
仕事、近所付き合い、子どもの学校、親族との関係など、生活を支えるものが一度に変わることを意味していたからです。
1991年のロサンゼルス・タイムズの現地報道では、長年暮らしてきた場所を離れることに不安を感じる住民や、移転後の住居費を心配する家庭の姿が紹介されました。
また、1993年12月のサウスチャイナ・モーニング・ポストの報道では、補償額に不満を持った元住民が、近隣の東頭邨の敷地内に仮設小屋を設けて抗議を続けていたことが伝えられています。
1994年1月にも、21人の元住民が補償を求めてその場所にとどまっていたと報じられました。
こうした経緯を見ると、取り壊しが完了したことと、住民の問題がすべて解決したことは同じではなかったと分かります。
【住民のその後】九龍城砦に住んでいた人は現在どこにいる?
2026年現在、九龍城砦の建物に住民が暮らしているわけではありません。
跡地は九龍寨城公園として整備され、かつての住民たちは香港各地などに移り住みました。
多くの住民は香港の公営住宅などへ移転
政府による移転では、対象者の状況に応じて公営住宅への入居や金銭補償などが用意されました。
ただし、全員が同じ条件で新しい住宅を得たわけではありません。
住宅を所有していた人、賃貸住宅に住んでいた人、事業を営んでいた人などでは、補償の対象や金額が異なりました。
さらに、補償金を受け取って自分で住居を探すことを選んだ人もいました。
その後の生活は、個人や家庭によって大きく異なります。
取り壊しから30年後も残る住宅問題
興味深い事例として、2023年8月には、九龍城砦の元住民である74歳の男性についてサウスチャイナ・モーニング・ポストが報道しました。
この男性は、約30年前の取り壊し時に補償金を受け取っていたことを理由に、公営住宅の申請を4回却下されたとして、香港政府を相手取る司法審査を申し立てました。
香港住宅委員会の制度では、補償金を受け取った人は、自分で住居を確保する選択をしたものと扱われ、公営住宅の入居資格に制限が生じる場合があります。
この事例は、九龍城砦の取り壊しが終わってから何十年が経過しても、当時の補償制度が元住民の住宅事情に影響する場合があることを示しています。
もちろん、これは一人の元住民の事例であり、すべての移転者が同じ問題を抱えているわけではありません。
元住民の記憶は現在も残っている
2018年には、取り壊しから25年を記念した報道で、元住民の生活や思い出が紹介されました。
2024年にも、サウスチャイナ・モーニング・ポストが取り壊しから30年の節目に元住民や元勤務者を取材しています。
さらに2025年に発表された研究では、2022〜23年に香港の27人を対象に、九龍城砦に対する記憶やノスタルジアについて聞き取りが行われました。
その研究では、世代によって記憶や評価が異なることも明らかになっています。
- 年長世代の一部は、九龍城砦を劣悪な住宅地と捉えていた。
- 実際に住んだ人のなかには、地域の人間関係を懐かしむ人もいた。
- 海外の映画やゲームを通じて知った世代は、独特の建築や文化的イメージに関心を寄せている。
つまり、九龍城砦は元住民にとっての故郷であると同時に、後世の人々にとっては都市文化の象徴にもなっているのです。
2026年現在、跡地は歴史を伝える公園に
現在の九龍寨城公園には、かつての九龍城砦の歴史を伝える遺構が残されています。
代表的なものが、清朝時代の行政施設だった衙門(ヤーメン)と南門の遺構です。
衙門は清朝時代の役所として使われた建物で、現在も当時の建築様式を伝えています。
また、取り壊し時の発掘調査では、南門を示す石碑などが発見され、保存されました。
これらは1996年に香港の歴史的記念物に指定されています。
2025年には、公園内で映画『トワイライト・ウォリアーズ 決戦!九龍城砦』に関連する映画セット展示「Kowloon Walled City: A Cinematic Journey」も設けられ、かつての街並みや生活風景を再現する取り組みが進められました。
2026年の現在、実際の住宅群は存在しませんが、遺構や展示、写真、映像を通して、元住民の生活を知ることができます。
【プロの結論】九龍城砦の住民の歴史から分かる3つのこと
九龍城砦を理解するためには、単に「世界一危険なスラム街」という印象だけで判断しないことが大切です。
歴史、建築、経済、住民の証言を合わせて見ると、次の3点が浮かび上がります。
1. 劣悪な環境でも、生活共同体は形成される。
狭い住宅、衛生問題、犯罪などの問題があっても、住民は仕事を作り、商店を営み、子どもを育て、近隣同士で助け合っていました。
2. 住環境の評価は、建物の外観だけでは決まらない。
九龍城砦には、一般的な都市計画では考えられない建築上の問題がありました。しかし、住宅価格の安さ、職場との近さ、近隣関係などを評価する住民もいました。
住民の生活満足度と、建築・衛生上の安全性は、別々に考える必要があります。
3. 都市の再開発は、そこに住む人々の人生を変える。
九龍城砦の取り壊しは、行政上の問題や生活環境を改善する一方、長年築かれた人間関係や仕事の基盤を失わせる結果にもなりました。
都市を新しくすることと、そこで暮らしてきた人々の生活を守ることは、必ずしも同じ方向を向くとは限らないのです。
【九龍城住んでいた人】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:九龍城砦には何人くらい住んでいたのですか?
A1:1987年の香港政府による事前調査では約3万2,000人が確認されています。資料によっては約4万人などの推計もありますが、調査時期や人口の数え方によって違いがあります。
Q2:九龍城砦に住んでいた人は現在も香港にいますか?
A2:います。取り壊し後、多くの住民は香港各地の公営住宅や別の住居に移転しました。また、一部は補償金を受け取って自分で住居を探しました。海外に移住した元住民もいます。
Q3:九龍城砦の家賃は安かったのですか?
A3:周辺地域より住宅価格や事業用物件の賃料が手頃だったとする研究や当時の報道があります。ただし、建物や契約条件によって異なり、すべての住宅に共通する家賃相場はありません。
Q4:九龍城砦には普通の家族も住んでいましたか?
A4:住んでいました。子どもを育てる家庭、工場労働者、商店主、高齢者など、さまざまな人々が生活していました。犯罪組織が存在したことと、住民全員が犯罪に関与していたことは別です。
Q5:九龍城砦が取り壊されたのはいつですか?
A5:香港政府は1987年1月14日に取り壊しを発表しました。住民の退去は1992年7月に完了し、建物の解体は1993年3月23日に始まり、1994年4月に完了しました。
Q6:九龍城砦の跡地には現在何がありますか?
A6:現在は九龍寨城公園があります。清朝時代の衙門や南門の遺構などが保存され、歴史を伝える施設として公開されています。
まとめ:九龍城砦に住んでいた人々が残したもの
九龍城砦に住んでいた人々は、犯罪や混沌だけに囲まれて暮らしていたわけではありません。約3万2,000人が確認された1987年の調査記録や、元住民の証言、研究者によるオーラルヒストリーからは、仕事、家族、近隣関係が存在する普通の生活の姿も浮かび上がります。
1992年までに住民の退去が進み、1993〜94年に建物は取り壊されました。しかし、移転後の生活や補償をめぐる問題、故郷を懐かしむ人々の記憶は、その後も続いています。
2026年現在、九龍城砦そのものは存在しません。それでも、写真や映像、保存された遺構、元住民の証言は、かつてそこに確かに人々の暮らしがあったことを伝えています。
九龍城砦の本当の姿は、単なる犯罪都市でも、理想的な共同体でもありません。厳しい環境のなかで人々が生活を築き、時代の変化によってその場所を失った、香港の複雑な都市史の一部なのです。